メッセージ性の高い作品で多くの人を魅了するアーティスト、バスキア。
厳しい差別があるアメリカで、黒人として成功を遂げたバスキアですが、27歳という若さで亡くなりました。
今回は、バスキアの死因を解説するとともに、作品から死のきっかけとなった彼の想いを紐解きます。
1.バスキアとは
バスキアは、1960年にアメリカのブルックリンで生まれました。
幼い頃から、母親や妹とともに美術館を訪れていたこともあり、バスキアの根底にアート感覚が根付きます。
1967年にはアートにゆかりのある聖アンズ学校に入学しました。
入学間もない7才の頃、交通事故によって腕の骨折や内臓損傷という大きな怪我に見舞われます。
治療のため入院していた病院で、母親によって届けられた解剖学者ヘンリー・グレイの「グレイの解剖学」を読みながら暇を潰していました。
この体験が、彼のアート人生に大きな影響を与えることになります。
その後、13歳の頃には母親が精神不安定になり入院、彼自身も学校を頻繁に変えざるを得ませんでした。
また、17歳で父親に家を追い出され、自ら生計を立てなければならない状況に陥るなど、バスキアの人生は波乱に満ちたものだったことが容易に想像できます。
辛い日々を過ごすバスキアですが、1980年代に入ると、彗星の如く現れたアーティストとして評価されるようになりました。
特に、世界的画家アンディ・ウォーホルと出会い共同制作をするようになった出来事は、彼にとって大きな転機でした。
しかし、アンディ・ウォーホルが亡くなった1987年、バスキアも翌年の1988年に27歳という若さで短い人生の幕を閉じることになります。
2.バスキアの死因
バスキアが亡くなった直接の原因は、ヘロインの過剰摂取による薬物中毒でした。
ヘロインは神経の抑制作用があり、過剰摂取すると強い陶酔感が得られるため、乱用につながるという危険な薬物です。
使用の継続により心身を破壊する恐れがあり、現在では使用や所持が禁止されています。
しかし、慕っていたアンディ・ウォーホルが亡くなった出来事や作品制作に対する強いプレッシャーにより心神喪失状態にあったバスキアにとって、ヘロインのような麻薬は唯一の心の支えでした。
薬物依存症に陥ったバスキアは、その後も薬物から抜け出すことはできず、1988年8月に自身のスタジオにて亡くなりました。
3.バスキアの作品から紐解く社会への怒り
バスキアが亡くなった原因として、アンディ・ウォーホルを失った孤独感もありましたが、その背景には白人社会への強い怒りも見え隠れします。
彼の作品は、社会に対する批判が強く現れており、バスキアを死へと追いやった精神状態を紐解くきっかけとなるでしょう。
ここでは、代表作を2作紹介するとともに、作品に込められた想いを解説します。
3-1.黒人警察官のアイロニー
バスキアの作品には、黒人をモチーフにした絵が多数登場します。
「黒人警察官のアイロニー」もそのひとつで、1981年に制作されました。
描かれている警察官の頭には、檻のようなシルクハットが被されています。
これは、黒人が抑圧され続けてきたアメリカ社会を表しているといわれ、黒人警察官がいかに辛い仕打ちを受けてきたかが伝わる作品です。
人種問題は、バスキアにとって非常に重要なテーマでした。
3-2.黒人の歴史/El Gran Espectaculo (The Nile)
1983年に制作された「黒人の歴史」も、白人社会を訴える作品のひとつです。
「ナイル」という呼び名もあるこの作品は、古代エジプトとアメリカ南部の文化がモチーフとして取り入れられており、かつて奴隷制度があったこと忘れてはならないという想いも込められているとされています。
この作品は3枚のパネルで構成されており、それぞれに黒人が虐げられてきた歴史を象徴する言葉が書かれています。
人種差別は、長い歴史を持つ恥ずべき悲劇であり、バスキア自身にも大きく影響しました。
4.まとめ
今回は、バスキアの死因について解説しました。
直接の死因は薬物の過剰摂取ですが、その背景には悲しい差別に対する強い怒りがあることが伺えます。
数奇な運命に翻弄されたバスキアの作品は、短い人生の中で多数生み出されました。
彼の作品を通して、地球上に未だ残されている多くの人種問題を考えてみてはいかがでしょうか。
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